吸盤
「梅雨の季節がやってきましたよ! 蛙が幸福であることに歓喜しています!」 帰途、カカシは歩みを止めて、声がした方を見た。 全く知らない青年だったので、再び歩き始めた。 「ちょいとそこのカカシ先生、立ち止まった=関心があったとお見受けしますが」 「なんで俺の名前を知ってんの? 怪しい人間に存在を知られてるだけで汚された気分になるんだけど」 「受付担当をしている私は、あなたのことなら何でも存じ上げておりますよ。ええ、なんでもね……」 意味深な間に、カカシが眉を寄せる。 「じゃあ俺の好きなもんは?」 「タコの吸盤」 「よし、ハウス」 「帰りませんよ!? なぜなら私には、蛙の喜び教を広める使命があるからでございます。教祖様のお顔も知らず、他の教団員が誰かも分かりませぬが」 「……残念な人生を歩んできたようですね」 「えぇ、一人での布教には資金と時間の限度がございますゆえ」 「噛み合ってねぇよ、会話が」 「というわけで、どうぞ」 男は親指ほどの蛙の置物を差し出した。 「仕事してねぇ接続詞だな」 カカシは置物を受け取り、まじまじと眺める。 「三千円でございます」 「五千円出せば受け取ってあげます」 「教祖様がお作りになったありがたい像を、金儲けに使用するなど言語道断でございますよ、カカシ先生!」 「あんたに言われたくねぇ!」 と、そこにイルカが通りかかった。 「あれ、なにしてるんですか、カカシ先生。帰って俺のために夕飯の用意をしてなきゃダメじゃないですか」 「さらりと食事の準備を押し付けてんじゃねぇですよ、イルカ先生」 「……そういえば、以前エスカルゴを食べてみたいって言ってましたよね」 「言ってねぇし、言ってたとしても食用に養殖されたやつであって、その辺のカタツムリのことじゃねぇですよ」 イルカは舌打ちしながら、男の方に顔を向けた。 「初めまして」 「同僚でございますよ!?」 「冗談です」 名前を呼ばないあたり、本気で忘れてるんじゃないかとカカシは思った。 「クッ……さすがイルカ氏、カリスマの塊ですな。我が宗教の好敵手と認めた男でございます」 「教祖もメンツも不明な教団に好敵手認定されてるんだ、イルカ先生」 「カリスマの塊のあたりを、もっと掘り下げて訊ねてもいいんですよ?」 「あんたらの不思議ワールドに巻き込まれたくないので、そこはスルーです」 男はイルカに指をビシッと突きつけた。 「私は知っているのですよ。あなたがカタツムリの喜び教の教祖であることを! 残念ながら、蛙を一番に愛し、蛙の幸福を守るべき蛙の喜び教とは相容れぬ仲でございます」 「イルカ先生、そんな教団の教祖してるのに、一般人にカタツムリを食わそうとせんでくださいよ」 「まさかの教祖スルー。カカシ先生も成長しましたね。ご褒美に、俺が作った我が教団の置物あげます」 親指ほどのカタツムリの置物だった。 「イルカ先生……蛙とカタツムリ、どっちが本命ですか?」 「おおおおっしゃっている意味が分かりませんよ?」 「布教用の置物の製作者が明らかに同じだろうが! っつーか、教団名のセンスのなさで、しょっぱなから薄々分かってたんですがね!」 「茶番に付き合ってくれて、ありがとうございます」 「いえいえ、まだあまり腹が減ってなかったので、いい暇潰しになりました。ところで、こっちで固まっている男性はどうしましょう」 イルカは咳払いをする。 「俺は、蛙もカタツムリもどちらも大事で、一番を選べなかったダメな教祖でした。しかしあなたは違います。今日からあなたが蛙の喜び教を率いてください。いや、率いるべき人物なのです!」 イルカは、置物がたくさん入っているであろう袋を渡す。 「わ……私が……」 イルカは神妙な顔で頷いた。 「もはや退いた俺が言えることは一つだけ──頑張ってください!」 こうしてイルカとカカシは帰途についた。 「また一人、迷える子羊に道を示してしまいました」 道を訊ねたら、真逆を指差してくれる人っているよな、などと思いながら、カカシは「そうですね」と大人な対応をしたそうな。 2012.6.18 |